小林正忠●楽天グループ常務執行役員CWO

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繋がりの力で楽天は成功した

 楽天グループの運営する仮想モール「楽天市場」が、1997年5月1日のサービス立ち上げから25周年を迎えた。同社創業メンバーの1人である、「セイチュウさん」こと小林正忠氏は、長年に渡り楽天市場の事業責任者を務めてきた。現在は常務執行役員CWO(チーフ・ウェルビーイング・オフィサー)の役職にある小林氏に、同社創業時の裏話や出店店舗とのエピソード、さらには今後の楽天市場などについて、たっぷり語ってもらった。

簡単なサイト更新にも費用が発生するというハードルを取り除きたかった

小売り知らないから変革起こせた

──楽天グループ(当時はエム・ディー・エム)は1997年に創業されたわけですが、当時小林さんはインターネットをどう捉えていたのですか。

 創業メンバーのうち、3人が慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)出身なのですが、SFCの1期生である私と杉原(章郎、現ぐるなび社長)は90年からインターネットを使っていましたし2期生の本城(慎之介、現軽井沢風越学園理事長)は91年から親しんでいました。ですから、97年の段階では7年以上、日々インターネットを使っており、現実の社会の一部と認識していたわけです。

──楽天創業前、小林さんは、三木谷社長のコンサルティング会社「クリムゾングループ」と業務委託契約を結んでいました。

 業務を手伝いはじめて2カ月ほどすると「会社を作る」という話になり、三木谷に「出資して欲しい」と言われたんですが、断りました(笑)。当時は上場の仕組みなども全く知らず、そもそも自分で起業しようと思っていたので「あなたの会社に出すお金はない」と。「みんな出すから出資してよ」「お金ないなら俺が貸すから」とまで言われたんですが、ますますうさんくさい、怪しいなと思いました(笑)。でも結局根負けして、6人で出資して作った会社が、今日の楽天になりました。

─「インターネットで物を売る」ことに対して、創業時にどんな議論があったのでしょうか。

 当時のネットショップは、開店休業状態の店が多かったんです。のれんは掲げているものの、客もいなければ店長もいない、夏なのにサイトには「あけましておめでとうございます」と書いてあったりしました。情報更新を外部に委託しているので、簡単な内容変更にも費用が発生するというハードルがあった。それをどう取り除けばいいんだろう、と考えたときに、お金をかけて外注するのではなく、自分の手で編集できるようすればいいのでは、と。商店街の魚屋が、朝は150円で売っていたサンマを夕方には100円で売るのと同じことを自分たちができるようにすれば、必ず需要はあると考えたわけです。

──楽天市場開設以前にも仮想モールはありましたよね。

 三井物産の「キュリオシティ」や野村総合研究所の「電活クラブ」、NTTの「エレクトロニック・コマース・ネットワーク」などがありました。ただ、仮想モールというよりは、インターネットショッピングのリンク集のような感じで、出店料が非常に高いものもありました。そこに月額5万円完全固定という破格の値段でサービスを提供するプレイヤーが登場した。ただ、それを手掛けているのは全くの無名企業だったわけです。

─5万円という金額設定の理由は。

 当時は課長・部長クラスが飲み屋で経費にできる金額が5万円くらいだったんですよ。「月5万円程度なら、飲み屋に行ったようなもの、と社長が思ってくれるんじゃないか」という話を三木谷が口にしていましたね。

─ただ、それでも最初はなかなか店舗が集まらなかった。

 とにかく電話しまくり、友人知人親戚のコネクションを当たりまくり、ウルトラスーパーどぶ板営業を繰り広げたのですが、電話はガチャ切りされることがほとんどでした。1日200回電話しても1本もアポが取れなかったときは、さすがに気力が萎えそうになりましたね。

─出店してくれた企業には先見の明があった?

 ネットビジネスの未来に確信を抱いていた人はほとんどいなかったと思います。面白そうだとか、付き合いで出したとか、そんな感じです。現在、当社で副社長執行役員を務める武田(和徳)は、三木谷とはハーバードビジネススクール時代の同期生です。彼は当時、トヨタ西東京カローラ(現トヨタS&Dフリート西東京)販売店の責任者をやっていたので、応援の意味を込めて出店してくれました。また、三木谷の銀行やテニス人脈で、出店事業者を紹介してもらっていました。「よなよなエール」のヤッホーブルーイングは97年から出店していますが、雑誌のベンチャー企業特集に星野(佳路、星野リゾート社長)社長(当時)が出ていたのを見て、電話したのがきっかけです。星野社長にインターネットの話をしたら「面白そうだから恵比寿で話聞くよ」となり、実際に会ったら私が大学の後輩ということもあって話が盛り上がり、契約につながりました。

─楽天は創業以来「エンパワーメント」という言葉を、事業の基本となる哲学として掲げています。

 96年に三木谷とこんな話をしました。「日本経済は元気ないけど、本来はもっともっと可能性あるよね。だって、日本には素晴らしい技術や商品がたくさんある。インターネットというプラットフォームを提供することでビジネスチャンスを届けて、そして彼らが成長・成功した暁には日本が元気になる」。ただ、当時の私は英語がほとんどできなかったので「エンパワー」と言われてもピンと来なかったのですが(笑)。

─97年5月の流通総額が30万円、うち20万円は三木谷さんが買ったという話はおなじみですが、そこから右肩上がりに成長していったのですか。

 すぐには伸びていません。1店舗あたり25商品しか登録できなかったのが大きい。これは、創業メンバーは誰も小売り経験が無かったので「選ぶ楽しみを提供する」ことの重要さを分かっていなかったのが原因です。ただ、小売りを知らなかったからこそ、イノベーションを起こせたんだと思っています。例えば「福袋を真夏に売る」という発想は従来の事業者にはありませんでしたが、私からすれば「何で夏にやっちゃいけないの?」。そこで「夏袋」をやったら売れたわけです。

─楽天市場の成長を実感したのはいつですか。

 プロ野球に参入する直前、2004年9月までは一般への認知度はあまり高くなかったんですよ。もちろん、ジャスダックに上場していましたし、旅行事業や証券事業にも参入していましたが、まだまだ社名は知られていなかった。プロ野球参入時に三木谷の描いた絵図の通り、東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生で知名度は一気に上昇しました。

─ただ、03年12月期には流通総額が1000億円を超えていましたし、順調に伸びていましたよね。

 まず流れが変わったと感じたのは、サービス開始から2年たった頃でしょうか、メディアへの露出もあり「詳しい話を聞きたいんだけど」という電話がかかってくるようになってからですね。99年下半期から出店店舗数が急速に伸びてきました。

 次が、日本のインターネットのインフラが変わった01年頃です。それまではダイヤルアップ接続が主流でしたが、ADSL接続が普及して通信料の完全定額が当たり前になった。そういう意味では孫(正義)さんなくして今の楽天はないんです(笑)。あのADSLモデムを無償配布する施策が日本のネットインフラを一気に引き上げ、皆が気兼ねなくネットを使えるようになり、うちのサーバーが悲鳴を上げる結果となった。

 今までネットでウインドーショッピングをする人なんていなかったのに、皆がさまざまなページを見るようになり、店長がページを編集しようとするとサーバーに負荷がかかってお客様が買い物できなくなってしまった。仕方がないので「夜8時からは店舗のページ更新はしないでください」とお願いしていました。

「人々の良い状態とはなんぞや」を問い続けながら運営していく

─それが02年4月の従量課金制導入につながったわけですね。店舗からの反発は大きかったのでは。

 築いてきた信頼を一夜にして失う、とはこのことです。02年2月20日に一斉メールで「4月1日から新制度を導入します」と通知したら「おいおい、ふざけんなよ」と猛反発を受けました。変更まで全然間がないし、しかもメール1本で済ませるなんて非常識すぎると皆さんからお叱りがあり、3月から全国を行脚して説明会を開きました。そこで「確かに、サーバーを増強しないと楽天も店も共倒れになるということは分かった。一緒に成長するために従量課金制度が必要なのは理解できるけど、せめて半年前には言ってほしい」という声をたくさんの店舗からいただいたわけです。これが今も年2回開催している「戦略共有会」誕生のきっかけです。

─店舗の離反を招きかねないことを考えると大ピンチでした。

乗り越えられた理由の1つは三木谷の覚悟です。私は店舗との距離が近かったので「ちょっと横暴だよね」という側の人間だったんです。ただ、三木谷から「セイチュウの言いたいことは分かる。でも、いちからやり直すつもりで新料金体系を納得してくれる店舗を1つずつ増やしていこう」と言われたことで覚悟が決まりました。「店舗にこちらの状況や考え、覚悟を全部伝えよう」と決意し、チームのメンバーにもその思いが共有できたこともあり、ほぼほぼ退店を出さずに済みました。

 5000店舗のうち、そのとき退店したのは100店舗ほど。料金体系の変更がなくても退店した店舗もあったので、それを除くと39店舗。99%以上の店舗は「苦しいけど一緒にやっていこう」とわれわれに未来を託してくださった。そういう意味では乗り越えられたもう1つの理由は、「従量課金モデルでやっていこう」という経営判断をしてくれた店舗の覚悟でしょうね。あのモデル転換がなかったら今の日本のECは無かったと思っているので、本当に店舗には感謝しています。

店長自身が問題を乗り越えてきた

─各社仮想モールの中で、楽天市場が最も成功した理由を分析すると。

 1つは「日本を元気にしたい」という、われわれが掲げた理念が、さまざまな人の力を借りやすいテーマだったということです。地方自治体や商工会議所、青年会議所、そして金融機関と、ありとあらゆる皆さんの協力があって今の楽天があります。例えば「一発当てて上場し、ミリオネアになる」などという目標を掲げていたなら、こうはなっていなかったでしょう。

 もう1つはその夢に乗ってくれた店長たちが作ったコミュニティーの力です。出店者向け教育プログラム「楽天大学」は99年12月にプレオープンしたんですが、当時は朝から晩まで3日間、リアルで講義を受けるという形式でした。そうなると「一緒に頑張ろう」という仲間意識が生まれる。当時のEC担当者は各社社内で1人なのが普通ですから、受講者は会社に戻ると孤立しがちだったんですよね。「あいつパソコンの前に1日中座って遊んでやがる」なんて扱いを受けていた。でも、楽天大学に来ると、自分の気持ちや立場を理解してくれる仲間がいる。そこからコミュニティーが自然発生するわけです。

 店長たちはとても仲が良くて、お互いの結婚式に招待し合ったりしていました。私も何度も店長の披露宴に出席しましたが、こういう関係性やコミュニティーは他社には無いものでした。例えば、店舗向けの電子掲示板「RON会議室」に、ある店長が「楽天をやめることになりました。いろいろやってみたけどうまくいかず、(経営者である)父を説得できなかったんです」と書き込みをしました。そうしたら他店舗の店長たちが「いろいろやってみたというけど、あれはやったのか?これはやったのか?」と親身になって相談に乗ってくれたんです。その店長がお父さんにプリントアウトした書き込みを見せたら「やるべきことができていなかったのか」となり、継続出店が決まりました。コミュニティーを店長たち自身が作り上げ、さまざまな問題を乗り越えてきたからこそ、今の楽天市場があります。

─たくさんの店舗に関わられたと思いますが、特に思い出深いエピソードは。

 革製品を扱うユキオ工芸という会社は、東京都台東区の三ノ輪に工房があるのですが、良くお邪魔しました。出店したのはいいものの、ネットを担当されている社長の奥さんはパソコンの使い方が分からない。家庭教師状態でつきっきりで教え、職人の旦那さんもまじえてランチも共にしたことを思い出します。別の店舗では、インターネットサービスプロバイダーを一緒に申し込んだり、印刷物を読み込むためのスキャナーを接続するべく、パソコンに拡張ボードをセットアップしたり、楽天市場の開設当初はパソコンが普及していなかったので、いろいろなお手伝いをしましたね。

─小林さんが楽天市場の責任者をしていたのはいつまでですか。

 2011年4月末までです。東日本大震災後の福島第一原発事故の際、三木谷から「東京がヤバい状態になるかもしれないから、お前は西日本の出店者を支えるために大阪で第2楽天を立ち上げろ。俺は東京に残るから」と言われました。すぐにメールマガジン発行や特集ページ作成、カスタマーサポートなどのメンバーを何人か会議室に集めて「すぐ家に帰れ。当日夜9時に大阪支社集合」と言い渡しました。大阪支社でひと仕事終えて、その後は業務都合でアメリカに渡ったので、以降は楽天市場事業に直接的には関わっていません。

─楽天市場に関わった14年間で、一番大変だったことは。

 立ち上げ当時ですね。誰も理解してくれないし、賛同を得られなかった。もちろん、社会的責任とかプレッシャーという点でいえば、今とは比較にならないほど楽でした。何しろ、自分で楽天市場のトップページを更新したのに、アクセス権限を間違えて誰も閲覧できなくなっていたなんてこともありましたから(笑)。でも、最初は「誰のために頑張るのか」すら分からないので、本当に辛かった。その後も苦しいことはたくさんありましたが、仲間がいましたし、分かってくれる店舗もいました。「この人たちのために頑張りたい」と思えたので、そんなに辛くはなかったですね。

─10年後、20年後の楽天市場の姿をどう描いていますか。

 楽天市場はまだまだ道半ばです。日本に数百万の事業者がある中で、まだ5万6000店舗しか出店してもらえていない。もっとネットビジネスの可能性や魅力を伝えられたなら、今以上に参画してもらえたはずなのに、それができていないのは、私たちの力不足です。

 もう1つ、販売されている商品に関して「昔はこれで良かったけど、これからの社会に適しているの?」というものもあるわけです。例えば、バージン・プラスチックで作られている商品がそうですし、児童労働で作られた衣料品が売られていたら大問題です。18年からサステナブルな商材を扱う「アースモール」を運営していますが、そのネーミング自体が問題だと思うんです。つまりわざわざ「アースモール」と呼ばなければいけない社会がおかしい。本当は楽天市場の全商品がサステナブルでなければいけないのですが、それを事業者に言っても「時期尚早」と言われて、消費者も「趣旨は分かるけどお高いんでしょ?」と言う。

 でも、97年に私は事業者に「ネットで買いものする人なんていないでしょ、時期尚早」と言われ、消費者には「ネットでモノなんて買うわけない」と言われました。私はこの25年間を見てきたので、10年、15年たてば楽天市場の商品は全てエシカルなものに置き換わると思っています。そして、それを信じて商品を並べてくれる事業者にもっともっと参画してもらえる事業体でありたいですね。

─小林さんの役職であるCWOの「ウェルビーイング」に関わってくるわけですね。

 ウェルビーイングとは、より良い状態にしていくことです。20世紀の良い状態と21世紀の良い状態は違います。大企業だけが栄え、大都市だけに人が集まるのはサステナブルではない。楽天市場は中小零細企業が頑張れるプラットフォームであり、地域社会が頑張れるプラットフォームでもある。日本の良い状態を作る、ウェルビーイングを25年前から考えていたのが楽天です。この先10年、15年たっても「人々の生活にとって良い状態とはなんぞや」を考え続けながら、「店舗の扱う商材の良いとはなんぞや」「消費者に買ってもらう商材の良いとはなんぞや」を問い続け、運営していくんだと思います。


小林正忠(こばやし・まさただ)氏

1994年慶應義塾大学卒業(SFC1期生)。1997年の楽天創業から参画し、ショッピングモール事業責任者として営業本部、大阪支社、マーケティング部門、国際事業等の立ち上げを行う。その過程で、6人の日本人組織が、70カ国・地域を超える多国籍の人材を有する、100人、1000人、1万人、2万人の組織に変化。現在までに世界30カ国・地域へと拠点を拡大して事業展開する中で、国内外のマネジメントの手法の違いを体験。2012年4月米国へ赴任し米州本社社長を務め、2014年9月シンガポールを拠点とするアジア本社の社長を歴任。グローバルマネジメントを体験した後、2017年末にアジア代表を離れ、現在は人々を幸せにする役割を担う「CWO:チーフウェルビーイングオフィサー」。2001年慶應義塾大学に「正忠奨学金」を創設するなど若者の育成に力を入れている。2011年世界経済フォーラムYoung Global Leadersにも選出。5児(息子2人娘3人)の父。



◇ 取材後メモ

楽天市場が産声をあげたのは、まだ日本でインターネットが普及しはじめて間もない1997年5月。私は96年からインターネットを使っていますが、何せ当時は電話回線にモデムをつないでいたわけで、ブラウザーで画像を読み込むだけでも何分もかかる。「ネットで物を買おう」などという考えには全く至らなかったことは覚えています。親しみやすいキャラクターで楽天市場の成長に大きく貢献してきた小林CWO。「サステナブルが時期尚早なんてことはない」という言葉には重みがあります。変わらぬエネルギッシュな仕事ぶりで「ウェルビーイング」な社会を実現していくのでしょう。

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